COLUMN ~私とH-IIAロケット~

神武 直彦
現所属:慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科 教授

当時のH-IIA担当業務

新入社員としてH-II打上げ運用の終盤とH-IIAの開発から5号機の打上げまで携わりました。20年以上経過し、今は政府委員などとして関わりを頂いています。

最終号機を迎えるH-IIAロケットへのメッセージ

大学院を修了して当時のNASDAに入社し、最初に携わったことがH-IIAロケットのアビオニクス(航空宇宙電子機器)の設計開発でした。 初期の設計から、開発・試験・打上げリハーサル、そして初号機から5号機までの打上げまでに関わることができ、日本各地や国外の製造メーカのオフィスや工場にも頻繁に訪問させて頂くことで、 ひとつひとつの小さな部品や機器が組み上がり、50m以上もする大型ロケットになる一連のプロセスを体感できたことは自分自身にとって貴重な経験になりました。 そのようなタイミングであったこともあり、新人時代は翌日仕事がある日曜日の夕方が一番ワクワクする時間で、1年目は無遅刻、無休暇で出勤し、 直属の上司に「今年、私は皆勤賞を頂けるのでしょうか?」と話をして苦笑いをされてしまった経験もありました。

また、H-IIAロケット開発と並行して、H-IIロケットの打上げにも関わりましたが、8号機の失敗に際し、 NASDAと海洋科学技術センター(JAMSTEC)での原因究明のためのLE-7エンジン回収調査の初回の航海に参加をさせて頂いたり、 月周回衛星「かぐや」(SELENE)を打ち上げるためのデータ中継衛星TDRSを利用したテレメトリ通信機器開発のためにNASAとの交渉に参加させて頂いたり、 今の私の力になっている基盤となる経験を数多くさせて頂きました。

その後、JAXAの別部門に移っても、「きく8号」を打上げた11号機の打ち上げ解説を初めてGoogle Earthを利用して行う機会を頂いたり、 大学教員として移籍した後にも政府委員として関らせて頂く機会を頂いたり、また、現在も宇宙戦略基金の宇宙輸送領域に関わる機会を頂いたりと、 結果的には初期の設計から始まったH-IIAとの関わりは50号機まで形を変えて続いているように思います。

私ごとながら、慶應義塾の小学校のひとつである慶應義塾横浜初等部の校長を務めていました。 その時にはH-IIAロケット打ち上げの際にライブ配信を皆で視聴して応援をしたり、朝礼で宇宙開発の話をしたりしたことも影響していると思いますが、 各生徒の夏休みの自由創作の作品にはH-IIAロケットをはじめとした日本や世界の宇宙機に関する展示で溢れていました。宇宙への挑戦は子どもたちの夢の一つだと感じています。

2001年に初号機が打ち上がったH-IIAロケットは四半世紀を経て50号機で終了しますが、そこに関わられた全ての方々のご尽力に心から敬意を表したいと思います。 そして、その経験を糧に、H3ロケットそして、その先の日本の宇宙輸送革新と発展を心から祈念すると共に、私自身も微力ながら関わり続けられればと思います。 50号機の成功、そして関係者全員の笑顔を願っています。

H-IIAロケットの開発と同時に行われていたH-IIロケット8号機打上げ作業時の様子

NASAのデータ中継衛星TRDSチームとH-IIAプロジェクトチームとの米国での調整会議