COLUMN ~私とH-IIAロケット~

坂爪 則夫
現所属:JAXA OB
当時のH-IIA担当業務
1999年からH-IIAロケット開発に従事
最終号機を迎えるH-IIAロケットへのメッセージ
1999年11月15日、私は本社貿易センタービルのコントロールルームで、H-IIロケット8号機の打上げを、理事や部長クラスと一緒に送られてくる画像を観ていました。 リフトオフ後100秒後SRBの分離は計画通り終ったものの、6分過ぎに第1段最下部のエンジン部で白い霧が一瞬舞った。これが私のH-IIAとの深いかかわりの発端でした。 『やってしまった!』と心の中で叫んだものの周りは打上げの手順通りの進行で喜んでいるお偉方たち、発する声は出ませんでした。 第1段エンジンLE-7は、私が手掛けた種子島の燃焼試験設備の建設(1985年)から育ててきたわが国初の第1段エンジンでした。 その開発は困難を極め、幾多の外燃を経てやっと完成したエンジンでした。
8号機の事故原因は当初は良く分からず紛糾したのですが、落下した小笠原沖の海底3000mから何とかエンジンを回収でき、故障個所を目にすることによって原因が明らかになりました。 水素インデューサが旋回キャビテーションによる振動でインデューサ翼の疲労破壊が起きたためでした。ただこれにはその上流にある入口配管のベーン損傷による流れの乱れも加わっていました。 このため、当時開発中のH-IIAロケットのLE-7Aエンジンの改良開発のための見直しがスタートしました。
この事故の後JR東日本の会長職を投げ打って山之内秀一郎さんが理事長で来られました。 山之内氏は若いころ、新幹線の速度記録を伸ばすことをやっていたそうで、私に『速度記録を出してもお客さんを乗せる電車はその記録の90%、80%しか出さない。 なぜ宇宙はこの考えを持てないのか?』と。当時のNASDA(JAXAの前身)のお偉方からは、地上マシンの安全率は4だが、宇宙は1.5。だからそのような過酷試験はできないとの説明していたことを覚えています。 爆発したかつてのエンジン、そして新たなLE-7Aの開発担当として理事長への説明を請われた私は、山之内さんの考えに賛同し、種子島のエンジンスタンドで過酷試験を行うことにしました。 これは担当メーカからの提案ではなくNASDA主導の考えです。当初メーカは大反対でしたが、これはNASDAの方針でNASDAが責任をもって主導することでメーカを説き伏せました。 フライト以上の厳しい作動条件と、エンジンが認定されても将来製造ばらつきの発生増加を考え、ばらつきを考慮した認定試験条件の設定です。 これには、8号機での事故原因が性能ばらつき(設計的ばらつき、製造的ばらつき)であるとの強い考えがありました。そのため、性能のばらつきの少ない設計に見直し、製造法もばらつきの少ない製造法に改良しました。
しかし認定試験が始まったばかりのLE-7Aはまだ製造基数が少なく、想定するばらつきを描けません。 このため、製造数の多い、事故を起こした、従ってばらつきの大きいLE-7のばらつきから認定試験範囲を設定し、過酷な状況下での試験を計画しました。 色々な不具合を発生しましたが、そこは改良し結果的に相当robust(ロバスト)に完成できたと思います。 ただそうやって完成したエンジンもいつかは事故に合うのではとの思いがあり、これまでの試験機1号機も含め以降の連続成功も祝えませんでした。 今回最終号機の、おそらく、成功でやっと心から喜べるのではと思っています。